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バポの話その1

 思うところあって、今日からしばらく「バポの話」を書く事にする。
正確に言うと「書いた事を再び書く」事にする、なのだ。
なぜなら、以下の文章はかつてスルヤムトゥのニューズレター(週一発行)に掲載したものだからだ。
2004年当時のもので、8年ぶりに読み直してみて付け足ししたい気分になる個所もいくつかあるんだけど
それはやめなさいという声がどこからか聞こえ、当時のまま載せる事にする。


バポの話 その1
 昨年バリに行った時の師「バポ」は正式な名前を「I made sija(イ マデ シジャ)」という。
が、人々は尊敬を込めて「バポ」と呼ぶ。私も「バポ」と呼ぶ。
彼本人も自分のことを「僕は」とか「私は」と言わずに「バポは」と言っていた。
インドネシア語では「Bapak」で、以前プナプナ71号でも書いたように、ミスターにあたる敬称。
バリのなまりだと音の最後がア行の時は「オ」に近い発音になるので「バパ」が「バポ」になる。
だから「ゴパラ」は「ゴパロウ」、「パニャンブラマ」は「パニャンブロモウ」みたいな発音になる。
(カタカナでうまく表せない・・・)

 前置きが長くなった。彼は歩くバリ芸術辞典であり、踊りはトペンをさせたら鳥肌モン。
しかもその他の男踊り女踊りすべての踊りに精通し、さらにガムランはどんな楽器でもこなす。
(まだまだ続く)
しかも影絵のダランの名手で世界に名をとどろかせるだけでなく、
手先も器用で自分でほれぼれするようないい顔のトペンを自分で彫っちゃうのだ。
何でもできて何でも知ってて、まさに「神様」だ。
バポのうちに世話になってた私は、毎日入れ替わり立ち替わりいろんな人がやってきてはバポに教えを乞う姿を見ていた。

ある日バポが昼食後にトペン作り出したので私もそばで稽古。
例によって私には目もくれないが(この話は次回に)気にせず音合わせを追求。
途中、若者が二人後ろにいるのに気づき、
「誰探してるの?」
「バポ」
ああ、この子たち私に気ぃつかってたんだ。いいのに。
「どうぞ、バポはそこにいるから」とシラカンするとワヤンの事で聞きたいことがあったらしくバポは音楽指導も交えて教えている。
バポは何にも見ずに口伝え。聞く方は一生懸命ノートをとっている。
こういう子たち中学生から高校生くらいの若者が多いんである。彼らにとって芸能は日常。
「これ、わからんでバポに聞きにいこまい」くらいのノリだと思うが、若い子が必死で自分たちの伝統を吸収しようとしている姿は先進国に住む私の胸を静かに打つ。


またある日のこと、庭でギーギーと音がするので出てみると中学生くらいの男の子がルバブをひとり弾いている。
アートフェスティバルで弾くのでバポに教えてもらいに来たという。
バポの姿は見えない。(お昼寝中)
同じ音をずっと繰り返してるんだけど、まず楽器が足にうまく固定できなくて弾いてると位置がどんどんずれてってしまい、「弾く」という体勢までなかなかいかない。
それでも半日くらいやってただろうか、だんだん遠くで聞こえるギーギー音がメロディーらしく聞こえてきた頃彼は帰っていった。
ガンサや(鉄琴みたいな楽器群のこと)クンダン(太鼓)がうまいのは知ってたけどバポはルバブまでできるんだ、すごいなあ。

またある時は図面広げて相談してる人たちがいるのでのぞき込むとバリ風彫刻の模様で装飾された割れ門のような形のお飾りの絵。
アートフェスティバルに出すそうで、形や装飾物をどうしたらよくできるか相談に来ていたのだ。
踊りや音楽だけでなく造形にも精通してるんだ、すごいなあ。

またある日。いつも遊びに来る陽気なナイスガイ、カデとスジャポルの二人組。
今日は何かと思いきや、カデが自分で彫ったトペンが下彫り完成したのでバポに見てもらいに来たという。
アルサウィジャヤの面だ。このカーブが難しかったとかここの厚みはこれでいいかとかしきりにやってた。
かと思ったら突然バポが立ち上がりどこかへ。現れた時手にしてたものは大きなオウムガイの貝殻。
これを今から切るという。もうおわかりだと思うけど、要は小さくカットして面の歯の部分に貼るのだ。
どこからかさびさびの小さな刃物を持ってきてそれから暗くなるまでカデたちはゴリゴリやっていた。
私は(バポにもらった貝でトペン作れていいなあ)と指をくわえて羨ましがっていた。
つづく・・・。
bapo_tapal.jpg
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  1. 2012/06/20(水) 23:59:59|
  2. バリ、インドネシア
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