どうぞそのまま

世のため人のためにならないページ

バポの話 スニマンアラム編その5

☆プナプナ133号 (2004年11月2日発行)

突然のアルサデビューは夜ではなく、昼間の結婚式だった。
初めてなので、お嫁さんのダユが付き添ってくれ、心強かった。
招待客でごった返す屋敷の一角、小さな一棟に通されるとすぐにバポと共に準備を始める。
それまでに何度もバポの舞台に付き添っているので手順はあらかたわかっているが、自分が踊るとなると話は別だ。
一応衣装をつけ、あとはタパル(お面)とグルンガン(冠)をつけるだけにして待機。
既にバポは棟の外で踊り始めている。

いつ出ていくんだろう・・。
曲がアルサに変わるからわかるよねと思いながらもかすかな不安がある。
外でノリノリで踊り語っているバポ。う~ん、いつ?と待っている私。
何々?何か私のこと言ってる。
変な日本人が出てくるから期待しろ?観客笑った。ウケてる。
いつも楽しませる事を忘れないバポ、エンタテイナーだなぁ。
あ、手招きしてる。出ろってこと?まだタパルつけてないってば。
ダユが慌てて手伝ってくれ、私が出るまでつなぎの音で待っていたガムランが突然アルサの曲になる。
きゃーいつも突然なんだからバポは~。
踊り出たはいいが、ん?音が・・音がぁぁぁ~。途中から違う。
えっ?
は?
ジェンジェンジョローンじゃない。
音が違うことにとまどって後半は最悪。
何とか立て直して終わるという結末。
バポはカウントだけ考えればいいと言うが、メロディーが違うのにどうするのか。
速くなって欲しいところでならないし、だから回れなくて音待ってたら「回れ」とバポに言われるし。

ようは場数ということか。
終わって悔しかった。
考えてみれば、どんな音でも、ランスンムナリが本来の姿だから、場数でしかない。
ランスンムナリとはどういう事かというと、バリで踊る時っていうのは、ある種の公演を除き、何回も事前にガムランと合わせる練習をして本番に備えるなどという手順は踏まず、直接その場に行ってその場で音と合わせる一発本番でしかないっていうこと。
次から次へとバポはハードルを作ってくれる。

なぜ踊りの稽古をするのか。なぜ踊るのか。
バリ人の場合目的は一つ。こういう形で、生活の中の色々なウパチャラ(儀式の事)で踊れること。
終点はそこだ。
もっとも、生活の糧を得るためという側面も忘れてはならない。
バポは必ずふんだんなバンテン(供え物)とその中に幾ばくかの現金をもらっている。
この2週間で4回もあった。
スニマン「アラム」の「アラム」という言葉が実感できる。学ぶべきものは学校ではない。
こういう学び方が本当なんだ。とバポははっきり言った。 

          つづく・・・。


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  1. 2012/06/29(金) 22:48:50|
  2. バリ、インドネシア
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バポの話 スニマンアラム編その4

☆プナプナ132号(2004年10月26日発行)

何回も繰り返して音をなぞっていると、
ああ、ここの音でこの動きなんだろうなあと流れの中で大体の目安がついてくる。
たぶんこれが左右にまわりこむ前の伸びる時の音なんだろうな。
ああ、だけど後ろ向きで首つけるとこの始めの音がわからない。
これかな。
などと探りながら一人でずっとやっていく。
サラッド(祭りの時などに使う竹で作った大きめの飾りもの)作りをしているバポに見えるところでそういう「探り稽古」をずっとやった。

「質問する」ということはある程度ポイントが定まっていないとできない。
よく、「どこがわからないかわからない」という生徒さんがいる。
本当にそうだと思う。
質問できるようになるまでに時間がかかるのだ。

だから、バポに聞けるようになるまで一人で「探る」作業が続いた。
横で稽古している私があまりもたもたしてるので、見るに見かねて
「あっ!!ちがう。こうだ。」
とやって見せてくれることもあったが、迷っていたり気づかなかったりするところを、先回りして自分が聞くより前にそう教えてくれる時はすごく嬉しかった。

いつも、(ああもう少しチョントが欲しいなあ。そうすればできる自信あるのに・・)
そう感じたことはしょっちゅうだったが、それがバポのやり方だからと思って従っていた。
あ、チョントとはお手本のこと。
少しずつ謎解きしていく過程は、大海原に島がぽつぽつとでき、さらにそれがつながって陸地になっていく。
最初海に放り込まれた時はアップアップでおぼれそうだったのが、段々島を見つけて泳ぎつくようになり、
時には隣の島へ歩いて行けるようになり、その隣の島にも歩いて行けるようになり・・
そんな感じだった。

ある日、バポはこういった。
「おまえは牛で、バポはゴパラだ。もしおまえが馬でバポが馬引きだとしたら、バポは馬の前を歩いていつも引っ張るだけ、そして馬は後ろからついて行くだけだ。」
「だけどな。バポがゴパラでおまえが牛ってことは、牛はずっと目の前に放し飼いにしてあるからいつでも見えるだろ。その方がはやいんだ。」
はい、そのやり方についていきます。
でも、さっき通して見せてくれたチョント、思ってたのと全然違っててがっくりです。
その方がはやい?ホントかなあ・・一歩進んで二歩下がる。
踊りながら寝ろと今日も言われた。
そうします。
明日はタパル(お面のこと)つけてやれって言ってたなあ。
はぁ。

次の日、初めてタパル、グルンガン、バドン、サンプルつけてやる。もちろん細々したことは何も言わな
い。
ぱっとつけて「ほれ、やってみろ。」
タパルのせいで、見えない。
息苦しい。
バランス感覚が狂う。
バドンが大きいのでアングッをしてもつっかえて、してるように見えない。
それでも数カ所注意してくれてあと一人でやれ。
ある時から「中でやれ」と言うようになった。
「中」とは鏡の前でということだ。
洗面台についている鏡から遠く離れると、かなり自分の姿が映るのだ。
衣装をつける稽古の頃になると私の踊りに「cukup」(十分だ)と言うようになった。
自分はまだ全然なのに。
そんな頃、「明日踊りに行くぞ」とバポ。
私は困った。
今まで、バリで踊るのは「異教徒だから・・」と断ってきたからだ。

・・・つづく。


  1. 2012/06/27(水) 21:00:00|
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バポの話 スニマンアラム編その3

☆プナプナ131号の後半 (2004年10月19日発行)


次の日。
「行くぞ。」「録音機もってこい。」
どこへ行くのかと思ったら歩いて5分の息子のうちへ。
ここはサンガル「パリプルナ」という名前の本格的な稽古場があるのだ。
もちろん、ゴンクビャールのセットも一式置いてある。
この時は毎日子供達の強化練習(アートフェスティバルのため)が行われていて、
夕方になるとあっちからもこっちからも蒼々たる大人の舞踊家音楽家が集まって子供の指導をしているのだった。
(この話はまた後日)

バポはガムランの前に座ってアルサを奏で始めた。
三々五々やってきた大人達がこれに加わる。
(ああ、これを録音しろということね。偶然録音機持ってきてたからよかったけどなかったらどうするつもりだったんだろう。それにこの録音機、かろうじて音拾えるくらいのすごーく性能悪いシロモノなのになあ。うまく録音できるんだろうか。)
不安をかかえながらもやるしかないので演奏を聴きながらどこが録音に最適な場所か探す。
少し入れては聞き、場所を変えて同じ事を繰り返し、でもなかなかうまい具合に音が入らない。
そうこうするうちに「おい、やるぞ。おまえも後ろで踊れ。」とバポ。
「はい。」
と言って生演奏で動き始めたバポについて一緒に踊り出す。
全然ついて行けない。
だって全部やるのほとんど初めて。
でも2回くらいやり、いよいよ本番。
「録音用意いい?」ガンサのリーダーが私に聞く。


終わって聞いてみるときけたもんじゃない。
(だから、この機械じゃ無理だってば)
でももう一度場所を変えてやり、なんとか聞けるものが録れた。
ふう。
これで音源が手に入った。

とにかくカセットが手元にあってそれを聞けばいつでも稽古できることがこんなに嬉しいものかと初めて思った。

次の日は「ウチャパンを覚えろ」ウチャパンとは語りのことだ。
仮面舞踊には語りがつきものだ。
私たちが仮面舞踊を見る時は演目だけを切り離して見ているので、なかなかそれらが一続きのものだとはわからない。
「ポガ サモ イグルーン リン パドヤマミー・・・」
とタイプで打って私に渡そうとして打ち始めたのだが、
これは10万年かかるとわかったのか、
「おい、今から言うから書き取れ」
と方向性をチェンジ。
苦労して書き取る。
そのあとウチャパンの部分の動きをやってくれて感激。
昨日通して踊ったこの部分がウチャパンのところだったのか、
なるほどそういう動きになってるとわかって再び感動。

さあ、これからが稽古だった。
といってもほとんど一人。
もう、従来型の教え方じゃないとわかっていたので、それからは一日のほとんどを中庭で過ごした。
で、カセットをかけながら一人稽古するのだ。
もちろんできないことだらけ。
記憶の片隅に残っているバポの動きを思い出しながらなぞる。
バポは自分の用事を色々しながら時々見るに見かねて私の踊りにチェックを入れる。
すると一日に一カ所ずつくらいわかるところが出てくる。
時には自分からここがわからないと聞く。
聞いた時には必ず教えてくれるのでもうこれ以上集中できないというくらい一生懸命見る。
それをやってみる。
の繰り返し。
本当に一日一カ所だった。

つづく・・・。


  1. 2012/06/26(火) 22:00:00|
  2. バリ、インドネシア
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バポの話 スニマンアラム編その2

☆プナプナ13号 (2004/10/19発行)


普通の雨はもちろん台風地震と、9月からの火曜日は悪天候率ほぼ100%である。

今日はバポの教え方について。
私は彼にトペンを習いに行った。
初めてのトペンである。
もう、すごくすごくがんばらないと・・・と覚悟を決めていた。
毎日熱い稽古だ、きっと。
そう思っていた。

ところが・・・である。
全稽古時間数のうちバポが直々に教えてくれたのはたぶん10%くらいだろう。
残りの90%は全部ひとり稽古だった。

バポは「教えない人」だった。というと語弊があるが、とにかくレッスン時間を何時から何時までと決
め、その間は先生が前に立って踊り、振りを頭から順に少しずつ進めて行く、
生徒は後ろでそれを真似するという従来型の教え方ではなかった。

ではどんな風に進めていったのか。
まずついた日の夜。
バポに「こども。ちょっと来い。」(なぜか私は『こども』と呼ばれていた)
バポの部屋の裏側の棟に呼ばれていくと、壁に一面仮面が飾ってあり、
それを見せたあとここへ座れと言われた。

で、アルサウィジャヤという演目の頭の部分を少しやって見せ始めたので、一緒にやろうとしたら
「あっ!!いかん。やるな。見てろっ」
と叱られた。
その優雅な動きに見とれていると
「ほれ、やってみろ」
1回しかやってくれないのにわかるわけないじゃん、と思いながらも
思い出し思い出しやっていくと
「あっ!強すぎるっ」
そうか。
もう一回やる。
まだ強すぎる。
もう一度やってくれる。見る。やる。ダメだし。
4,5回やってやっとすこーしやってることがわかってきた頃に
「終わりだ。もう寝ろ。」

次の日の朝。
(今日は何時から稽古するのかなあ。聞いてみよ。)
「バポ、何時からやりますか?」
「まずはムシク(音楽)だ。」
すみに置いてあるティンクリックで主旋律らしきものを叩いてくれる。
「おまえもやれ。」
やる。
しばらく一緒にやっていたらバポは立ち上がって自分の部屋へ行ってしまった。
一人でやる。
やっているうちにこれで正しいのかわからなくなってくる。
覚える前にバポがいなくなっちゃったから。
はあ~。
前途多難。

でもこの日は午後しばらく、バポが口三味線うたいながら自分で踊って見せてくれて嬉しかった。
見てろ。やるな。というから必死。
だって何回もやってくれないんだもん。
もうちょっとやって欲しいなあ、思った頃にぷつっとやめて、「とにかく音だ。」と言い残し自分のやることに帰っていく。
カセットなどないのでバポの口三味線を思い出しながら一人でやるけど全然できない。
はあ~。
ためいき。

つづく…。



  1. 2012/06/25(月) 22:00:00|
  2. バリ、インドネシア
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またまた バポの話 スニマンアラム編

☆プナプナ130号(2004/10/12)

バリ人のプナリ(ダンサー)プナブ(ミュージシャン)はそれで食べてる人ってごくごくわずか。
ほとんどの人は普通に本業がある。
ボナ村の先生は「最後のスニマン アラム」という異名をとる人だ。
スニマン アラムとは芸能だけで生計をたてている人。
芸能だけで食べていく手っ取り早い方法はsanggar(サンガル=教室のこと)を持つことだが、
それだけではスニマン アラムと呼ばれないだろう。
宗教上の色々な儀式や祭り、イベントなどで自分が演じることによって収入を得るという
バリ本来の芸能のあり方の中で主に生きてる人でないとその名前にふさわしくない。

ボナの先生バポ シジャは齢70を越して未だ第一線で活躍する舞踊家であり
影絵芝居ワヤンの人形遣い(ダラン)でありガムランの演奏者でもあるお方、
そして建築彫刻その他バリの芸術で通じてない分野があるんだろうかと思える、神様のような人だ。
だから別にサンガルを持ってなくてもバポに教えを請う人は沢山いて、あっちでもこっちでも
「昔バポに踊りを習った」
という人にソーグーする。
皆バポを尊敬している。

そんな中の一人、マデ氏は言った。
「ハラパンニャ バポ。マシ ジャウー。」
(願いはバポみたいになること。まだまだ遠いよ。)
彼、踊り手さんとして十分凄いのに・・。

SMKI(芸術高校)卒の彼はこう続ける。
「SMKIはわずかな時間だし、出てから個人的にバポのような先生に習うことで幅を広げていくんだ。
そのときはノル(ゼロの意味)からだね、いつも。」
バポの着替えを見守りながらそんな話をする表情は本当に生き生きしている。
そういう顔を見ると本当にバリの芸能が好きなんだなあと心から思う。
スニマン アラムの力は偉大だ。
バポは各地にこんな若者をいっぱい育てていて敬服する。   

次回その教え方について・・。



 味わいあるバポの衣装かばん。ぼろぼろですわ。

  1. 2012/06/24(日) 22:00:36|
  2. バリ、インドネシア
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バポの話 バリの年寄り編

☆プナプナ 104号(2004/03/10発行)

バリに限らず、インドネシアで感心することのひとつに、「年寄りには一目おいている」というのがある。
頼りにされてるし、若い者はある種の尊敬をこめて接している。
バポは歩くバリ芸術だから、特にそうなのかもしれないけど、一緒にいると誰からも大事にされていた。
踊りの依頼があれば必ずお迎えが来て荷物を運んで差し上げ、場所に到着すれば、そこにいる老若男女が挨拶に訪れる。
手を握り、肩を抱き、バパに話しかけ、その表情はおだやかでやさしく、そんな表情を私はいつもいいなと思って黙ってみていた。
そしてそれが男性ならば、誰もが一度は踊りか音楽かを教えてもらったことがあり、そばにいる変な外人に向かってバポをたたえる話をするのだ。
こんなに沢山の教え子がいて、そしてその年齢層たるや20代の若者から中年のおっちゃんに至るまで、全く驚きだ。

bapo8.jpg

バポのうちにはもうひとり毎日やってくる近所のおばあちゃんがいる。
この写真だと上着を着ているが、この日は小寒い日だったので朝方たまたま着ていただけで、いつもは上半身すっぽんぽん、日ごろ隠していないので、腕や顔と同じようにおっぱいも境界線なく日焼けした同じ色で一体化し、見事に自然。
上着を着ている方が違和感があるくらいのもんだ。
バリのこういうおばあちゃんはダドンと呼ばれている。
このダドンは毎日午前中にやって来て、台所関係の面倒を日がな一日みていた。(このうち、主婦は二人いるのだが)

bapo9.jpg
 
バポの舞台がある日は、依頼元から朝沢山のお供え物が届く。
この写真はその一部分で、他にもいっぱいの食べ物などが運ばれる。
これを片付けるのは主に女の人の役目なのだが、ここはいつもダドンがやっていた。
毎日見てるとある程度やり方がわかってくるので時々私も手伝ったりした。

ある日、いつものようにバポの舞台がある日。
朝からおっちゃん達がお供え物を持ってきた。
みるみるうちに台所の台がいっぱいになってくる。
この日、なぜかダドンは姿が見えなかった。
持ち込まれたお供え物の山を目にしてこのうちの二人いるうちの一人、お嫁さんなのだが、
彼女はためいきをつき、
「ダドンはどこ?」
「今日まだ来てないよ」と私。
「呼んでくる」呼びに行った。
たぶん彼女の手に負えないと思ったのだろう。
頼りにされてるのねー。ダドンじゃなきゃだめなんだ。バリの年寄りはなくてはならない存在だ。

bapo7.jpg
再びバポ。オランウータンではない。  


  1. 2012/06/22(金) 23:00:00|
  2. バリ、インドネシア
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バポの話 ジャジャン編

☆プナプナ 103号 (2004/03/02発行)原文のまま

bapo3.jpg  おこしもの

先週、昼の稽古の合間に「甥っ子チャンにおこしもの作ってあげた話」で盛り上がった。
ひなまつりにふさわしいネタだ。
知らない人がいたので敢えて聞くけど、この「おこしもの」なるもの知ってる?
お雛様が近づくとスーパーでも売ってるよね。

初めてバポ宅を訪れた時、着いて早々「ジャジャン作り行くか?」と誘われた。
行った所は一週間後に迫った大きな祭りの準備中。
元気なおっちゃんおばちゃんをはじめ、娘、子供と村人総出の図だった。
日本だったら(平日に何故こう働き盛りの世代が一同に会せるのだろう?)という風景だ。
人々は農作業の区切りをつけて出てきているのだった。
神聖なる寺の祭り準備なので全員正装に近い。
ちゃんとサロンを巻き、ウエストにはサブ(帯)を巻いているし、中にはちゃんとクバヤを着ている人もいる。
ここで行われていた主たる作業がこの「ジャジャン作り」。

ジャジャンの色々(揚げてある)
bapo5.jpg bapo4.jpg

これ、何でできてると思う?そう米だ。おこしものと同じ。
食紅で色をつけるところも同じだ。
ジャジャンの作り方は①餅米を炊く。②炊けた米をつぶしながら食紅を混ぜて練る。③耳たぶくらいの硬さになったところで小分けにし、ひも状にのばしたものを成形してナシブンクスの紙の上に貼り付けていったり、下の写真のようにそのまま型に貼り付けたりする。④成形されたものを油で揚げてできあがり。(何でも揚げる人達だ)
おこしものやそれに似たしんこ細工では蒸すけど、それは日本だからだろう。
熱帯のバリでは揚げなきゃ日持ちしない。                            
 
簡単そうに見えるけどなかなか技術がいる。
こういうことを日常的にやっているバリ人は器用なの当たり前だなあと思わされる。

実は④で「できあがり」と書いたけど本当は続きがある。
このできあがったものは単なるパーツで、この後骨組みだけの大きな傘に糸と針で取り付けていくのだ。
揚げたてのパーツは時が経って傘に取り付けるころには結構乾燥しているので、モノによっては取り付け中にパーツの中のまたパーツがはがれてボタボタ落ちたりし、そのたびに
(あ、今落ちてるの、私が作ったシロモノでは・・・)と周囲の目が気になったりした。

気がつけばこの作業場、自然物じゃないものはほとんど見当たらない。
突き当たりのコーナーは井戸と土作りの釜。
直径1mはあろうかという鍋がかかり、燃料の竹がごうごうと燃え盛っている。
傘の骨組みも竹。地面はもちろん土で少し前に降った突然の雨でぐちゃぐちゃ。
私たちはコンクリートのたたきにござを敷いて。
周りは炊いた米を使っているのですごいハエだ。
犬がうろつき、ひなどりが逃げ惑い、米を炊くにおいと何かわけのわからないにおいが混じりあい、脇では別の男たちがバナナの葉で編んだかごにお供え用の生きたとりを入れて、二つ割にしたやしのみの棒にくくりつけている。

そんな中でコピ(コーヒー)が出された。
私は珍しく朝からおなかが要注意。少し怖かった。
だって遠くに見えるのは井戸。アクアのはずないもん。(アクアは飲料用に処理された水)
でも飲んだ。

治った。

不思議だった。
昼には順調におなかがすき、バポがご飯に誘ってくれた。
見ると絶対手で食べるご飯。ジャジャン作りで汚れまくったこの手で食すのかと一瞬思ったけど、思えばずっと米をさわってた訳で別にどってことないではないか。
バポに「食べろ」と命令された、どう見てもかわいた犬のフンにしか見えない魚のレバーも含めておいしくいただいた。

bapo6.jpg
バロンの木型に直接貼り付けてる      


  1. 2012/06/21(木) 23:59:59|
  2. バリ、インドネシア
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バポの話その1

 思うところあって、今日からしばらく「バポの話」を書く事にする。
正確に言うと「書いた事を再び書く」事にする、なのだ。
なぜなら、以下の文章はかつてスルヤムトゥのニューズレター(週一発行)に掲載したものだからだ。
2004年当時のもので、8年ぶりに読み直してみて付け足ししたい気分になる個所もいくつかあるんだけど
それはやめなさいという声がどこからか聞こえ、当時のまま載せる事にする。


バポの話 その1
 昨年バリに行った時の師「バポ」は正式な名前を「I made sija(イ マデ シジャ)」という。
が、人々は尊敬を込めて「バポ」と呼ぶ。私も「バポ」と呼ぶ。
彼本人も自分のことを「僕は」とか「私は」と言わずに「バポは」と言っていた。
インドネシア語では「Bapak」で、以前プナプナ71号でも書いたように、ミスターにあたる敬称。
バリのなまりだと音の最後がア行の時は「オ」に近い発音になるので「バパ」が「バポ」になる。
だから「ゴパラ」は「ゴパロウ」、「パニャンブラマ」は「パニャンブロモウ」みたいな発音になる。
(カタカナでうまく表せない・・・)

 前置きが長くなった。彼は歩くバリ芸術辞典であり、踊りはトペンをさせたら鳥肌モン。
しかもその他の男踊り女踊りすべての踊りに精通し、さらにガムランはどんな楽器でもこなす。
(まだまだ続く)
しかも影絵のダランの名手で世界に名をとどろかせるだけでなく、
手先も器用で自分でほれぼれするようないい顔のトペンを自分で彫っちゃうのだ。
何でもできて何でも知ってて、まさに「神様」だ。
バポのうちに世話になってた私は、毎日入れ替わり立ち替わりいろんな人がやってきてはバポに教えを乞う姿を見ていた。

ある日バポが昼食後にトペン作り出したので私もそばで稽古。
例によって私には目もくれないが(この話は次回に)気にせず音合わせを追求。
途中、若者が二人後ろにいるのに気づき、
「誰探してるの?」
「バポ」
ああ、この子たち私に気ぃつかってたんだ。いいのに。
「どうぞ、バポはそこにいるから」とシラカンするとワヤンの事で聞きたいことがあったらしくバポは音楽指導も交えて教えている。
バポは何にも見ずに口伝え。聞く方は一生懸命ノートをとっている。
こういう子たち中学生から高校生くらいの若者が多いんである。彼らにとって芸能は日常。
「これ、わからんでバポに聞きにいこまい」くらいのノリだと思うが、若い子が必死で自分たちの伝統を吸収しようとしている姿は先進国に住む私の胸を静かに打つ。


またある日のこと、庭でギーギーと音がするので出てみると中学生くらいの男の子がルバブをひとり弾いている。
アートフェスティバルで弾くのでバポに教えてもらいに来たという。
バポの姿は見えない。(お昼寝中)
同じ音をずっと繰り返してるんだけど、まず楽器が足にうまく固定できなくて弾いてると位置がどんどんずれてってしまい、「弾く」という体勢までなかなかいかない。
それでも半日くらいやってただろうか、だんだん遠くで聞こえるギーギー音がメロディーらしく聞こえてきた頃彼は帰っていった。
ガンサや(鉄琴みたいな楽器群のこと)クンダン(太鼓)がうまいのは知ってたけどバポはルバブまでできるんだ、すごいなあ。

またある時は図面広げて相談してる人たちがいるのでのぞき込むとバリ風彫刻の模様で装飾された割れ門のような形のお飾りの絵。
アートフェスティバルに出すそうで、形や装飾物をどうしたらよくできるか相談に来ていたのだ。
踊りや音楽だけでなく造形にも精通してるんだ、すごいなあ。

またある日。いつも遊びに来る陽気なナイスガイ、カデとスジャポルの二人組。
今日は何かと思いきや、カデが自分で彫ったトペンが下彫り完成したのでバポに見てもらいに来たという。
アルサウィジャヤの面だ。このカーブが難しかったとかここの厚みはこれでいいかとかしきりにやってた。
かと思ったら突然バポが立ち上がりどこかへ。現れた時手にしてたものは大きなオウムガイの貝殻。
これを今から切るという。もうおわかりだと思うけど、要は小さくカットして面の歯の部分に貼るのだ。
どこからかさびさびの小さな刃物を持ってきてそれから暗くなるまでカデたちはゴリゴリやっていた。
私は(バポにもらった貝でトペン作れていいなあ)と指をくわえて羨ましがっていた。
つづく・・・。
bapo_tapal.jpg


  1. 2012/06/20(水) 23:59:59|
  2. バリ、インドネシア
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発見その1

作者の意図が理解できた時、その踊りがより輝きを増して見える。

そして、それまでどうして気がつかなかったのか自分のバカさ加減にあきれる。

  1. 2012/06/17(日) 23:59:59|
  2. ダンス
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